▲正門には新校章が・・・・
▲旧・通用門が正門になったようです
▲窓には壁面緑化の仕掛けが?!
▲旧・正門から見た新校舎
▲掲示板にはフェンシング部が関東大会に出場と・・・
校長先生に確認しましたところ・・・・
本日付で東京都から学校側に鍵が引き渡されたそうです。
王工の歴史資料室のことも・・・・
記念碑の設置場所のことも・・・・
近日中に学校に訪問して確認して参ります。
我々、昭和41年卒業(第18回)の電子科G組のクラス会は、去る5月29日(日)の午後、小雨降る旧王工正門前に集合し、始まった。
あいにくの雨であったが、新校舎の建設中の様子を見たり、運動場に仮設された仮校舎を見たりした。体育館脇のヒマラヤスギは、無事に残されており、全体の面影は変わっていないので、一同懐かしい気持ちで一杯だった。
振り返れば、卒業から45年の歳月が流れている。すぐ分かる顔もあれば、本当に45年ぶりであなたは誰ですか、という顔もあった。在校時は坊主頭であった級友が髪がふさふさであったり、長髪でいたものが、はげ頭になっていたり、まことに不思議な光景に一同大笑いの連続である。
その後、懇親会場に再度集合し数十年ぶりに会う級友も交え、再会の乾杯をした。あいにく、担任の井内先生(85歳)は体調がすぐれず欠席となったが、卒業生42名中15名が参加し、それぞれが卒業から今日に至るまでの仕事や生活を報告する5分間スピーチを行った。H.Rで鍛えただけに見事予定時間の1時間半以内で完了した。
参加者の年齢は63又は64歳で、その半数には孫がおり、一人を除き全員の配偶者は健在であるとのこと。三分の一は経営者として活躍中、三分の一はまだサラリーマンとして働き、残りの三分の一は年金暮らしといったところか。激動の時代を生きただけに、卒業時から、転職をしなかったものは2名だけであった。それからは、いろいろな先生達の、消息や思いで話などに花が咲き、井内先生のクラスでで良かったと言うのが、一応の結論か。
一方、健康状態は心筋梗塞で仮死状態に陥り蘇生したもの、脳梗塞を2回やりリハビリによりやっと歩行できるようになったもの、副腎を一つ取ったものなど、その他総合病院の病棟並みで、健常者は少数であった。
幹事の記憶によれば、20歳台のときのクラス会では、20数名の参加があったが、そのときは日本酒一升瓶で15〜6本、ビール百数十本を消費し、ばたばたと倒れたものが続出したと思うが、今回はその十分の一程度であった。酒量は年齢に反比例し確実に少なくなっている。おかげで、幹事は予算の心配をせずに、安心し運営をすることが出来た。
遠方から参加の1名をのぞき、全員が二次会に移ってもさすがに、40数年も経験をつんできただけあり、酒で倒れるものも無く、命があれば再会しようと誓い、「天は明るし地は広し・・」の校歌を高らかに斉唱し散会となった。有志は3次会まで粘り、最後は全員無事で帰宅することが出来た、と思っている。
卒業生の武田さんよりメールをいただきました。
今年3月にスタートしました
「都立王子総合高等学校」の学校見学会が
下記の日程にて実施されるそうです。
なお、当日13:25までは授業公開も行っているので、授業参観も出来るようです。
お時間のある卒業生は…是非…ご参加を…。
◆日 時 平成23年6月25日(土)14:00〜15:00
◆会 場 本校1階木工室
※ 事前予約は必要ないそうです。
学校に直接お出かけください!!
◆学校見学会の案内
http://www.oji-sogo-h.metro.tokyo.jp/cms/html/entry/51/1.html
◆学校長の挨拶
http://www.oji-sogo-h.metro.tokyo.jp/cms/html/entry/6/file75.pdf
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昭和55年 第32回電気科卒(担任:山崎洋一先生)
クラス会を開きたいのでご連絡ください>
また、先日10月28日同クラスの山崎 勝君が
◆リンク「卒業生のHP」に同クラスの鈴木 功君(芸名:鷲生 功)
【投稿者】
昭和55年 第32回電気科卒(担任:山崎洋一先生)
江東区亀戸●−●−●
Tel 03−5626−8332
c_n_r_t_family_26260214@docomo.ne.jp
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第32回電気科E組卒 富澤 孝幸さんより情報をいただきました。
ご冥福をお祈りいたします。
合掌
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石川孝光さんの葬儀
葬儀の場所: 京急メモリアル 金沢文庫斎条
【地図】http://www.doko.jp/search/shop/sc866732
住所 横浜市 金沢区谷津町384
電話 045 784 9833
FAX 045 784 6919
交通: 京浜急行 金沢文庫より徒歩数分
お通夜: 9月23日(木) 18時ー19時
告別式: 9月24日(金) 12時ー13時
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┗■王子総合学科高等学校
◆命名の背景となる記述
同じ場所に出来るのだから、同じような名前でいいと思います。
桜丘女子校だって共学に変わって「桜丘高等学校」と、「桜丘」を引き継いでいる。
王子工高だって同様に引き継いでいいのではないか。
タクシーで「桜丘女子校に行ってくれ」と言えば、「桜丘高校ですか?」となるでしょう。
全く違う名前にすると見付けられません。
卒業生からして見れば、「どうして新設高で1からスタートしなければいけないの?」
と言う不満が有るけれど、この名前なら納得出来るでしょう。
◆卒年・クラス……47年B組
◆氏名……………武田 英夫
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┗■学校名は 「王子総合学科高等学校」を希望
◆命名の背景となる記述
高度経済成長期、そして低成長に入ってもなお現在のように少子化が
社会問題となるまでの暫くの間は工業高校、商業高校等が就職への教育機関
として十分に機能してきた。
そういった歴史の中に 戦前にルーツを持ち都立王子工業高校があった。
工業高校の役目は終わったわけではなく必要であり改革には賛成であるが、都が改革をより
特化したカリキュラムで大学まで繋げることを狙って存続させる工業高校は誰とは言わないが
より歴史の深い伝統校にしようという声が何処からともなく私には聞こえてくる。
「何で王子が統合に……」と思い寂しいし、王子工業高校とて決として浅いわけではないとも思う。
が、蔵前とか小石川、北豊島といったより老舗がそばにあり譲るのも致し方なしとおもう。
そこで校名を顧ると殆どが地域の名を取っている。だから新しい校名も地域の名、しかも同じ場所に
設立するのであれば、縁をしても王子総合学科高校とするのが地域の人々にとっても受け入れやすく
順当ではないかと思う。
現在、準備室で挙げられているのが滝野川、北、北路とのことだが北地区(北区周辺)にあることを校名に表したいのなら、滝野川の方が寄り狭い範囲ではあるが「あぁ、あの辺り……」と判りやすく親しみやすい。狭すぎと思われる向きには王子の方がより広い範囲を都民は思い浮かべるのではないかと思う。
かつて王子区といった行政区があった所以でもある。
勿論卒業生にとっては王子を長く残して欲しいのは言うまでもない。
◆昭和40年・機械科 A組
◆石原 隆
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┗■王子総合学科高等学校
新校名について以下の通り意見を述べます。
1,王子総合学科高校
2,王子と言う地名は古く江戸時代から多くの人に親しまれており、時代劇などでもしばしば登場する、東京における伝統的な名称です。
北はただ単に方角を示しているに過ぎず、固有の名称ではありません。
滝野川や飛鳥山はすべて王子に含まれるもので、王子は旧東京市の王子区です。
王子工業学校の発足時にも東京の城北地区においてはもっとも有名で代表的な地名である王子を採用したものです。
東京都の学校としては王子と言う名称だけで、城北にあることを示します。
都立高校には設置する地名を持って校名とするものが多く、都民も校名についてそのような意識でおります。
また、地域住民の方々にも充分親しまれるものと思います。
3,昭和41年卒G組
4,渡邊國人(王友会副会長)
以上ですが、是非王子の名称を残すよう運動をしてください。
おそらく、OBの総意ではないかと思います。
◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆
【急募】
北地区総合学科高等学校(仮称)の学校名・募集
王友会 関係者各位
本日・北地区総合学科高等学校(仮称)の
開校準備室の校長先生より連絡をいただきました。
同窓会の皆さんの想いを込めた学校名を……
3月末日までに準備室に書面により提出していただきたいとのことでした。
◆学校名
◆命名の背景となる記述
◆卒年・クラス
◆氏名
以上のことをメール又はファックスでご連絡下さい。
王友会の〆切りは3月29日(月)とします。
但し……
・可能な限りカタカナ、ひらがなを使用しない
・常用漢字であること
・近隣の学校と類似しないこと
以上にご配慮下さい。
ちなみに……
準備室で挙げられているのが……
◇滝野川総合学科高等学校
◇北総合学科高等学校
◇北辰総合学科高等学校
◇北路(きたみち)総合学科高等学校 ……など
引き続き……多くの資料を蒐集しながら候補名を検討されているとのこと……。
東京都教育委員会・学校名検討委員会……都議会の審議を経て
22年秋頃に正式に発表されの運びとなるようです。
【王友会】……細野孟士(t-hosono@holonics.gr.jp)
=======================================
■連絡先
文京区本郷1−35−12 かんだビル7階 (株)ホロニックス総研内
TEL.03-5684-0021 FAX.03-5684-0031 〒113-0033
◇ホームページ:ohyukai@holonics.gr.jp
◇ブログ:http://oukou-2009.seesaa.net/
===================================
■緊急連絡用(会長・細野孟士・直通)
Docomo 090-3203-0047
dzc05310-take5@docomo.ne.jp
===================================
昨日は…2010年「3Dクラス会」にご参加いただきありがとうございました。
酔い倒れする人もなく無事にご帰還されましたでしょうか??
金古先生…
84歳でまだまだお元気なご様子で…本当に何よりのこととお喜び申し上げます。
勝手気ままに話す生徒達の会話に静かに耳を傾けておられましたが…
いかがでしたか?
松下寿男君、古い渡辺君との離日のときの逸話など聞かせていただきありがとう
ございました。
岡本勝雄君、相変わらずの飄飄としたお話しの仕方は…学校時代を思い出させて
くれました。
木村義成君、身体のことを心配しておりましたが今も現役で頑張っていらっしゃ
るとのことで驚きました。ムリしないで頑張って下さい。
大淵敏雄君、皆さんと楽しく会話ができましたか。これに懲りずに…これからの
クラス会にも参加して下さいね。
上野和夫君…本当に久しぶりでした。少し太ったようですがお元気そうなお顔だ
ったので安心しました。
柳誠一君、たくさんのクスリを呑んでいるようですが、余り無理しないで生活し
て下さいね。今日からはお酒をグンと控えめにして下さいね。
渡辺福雄君、久しぶりにお会いした君は若返ったかのようでしたね…。帰朝期間
はかなりハードなスケジュールのようですが、存分に日本の空気を持ち帰って下
さいね。
鈴木洋三君、いつも細かい会計をお願いしてすみませんでした。金古先生がいつ
までもお元気でいらっしゃるように、近隣のよしみでよろしくお願いいたします。
クラス会に出席できなかった皆さん…、次回は是非とも元気な顔を見せて下さい
ね。
それと…
一足先に黄泉の世界に行ってしまった
級友やそのご家族のことも忘れないようにしながら、
今ある人生を有意義に社会のために活躍していきましょう。
◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆□◆
◆齋藤照正氏(昭和39年卒・高16回卒)電子科 D組/★テリーさいとうHP
----------------------
★テリーさいとうHP
----------------------
■特報・たずね人■
あの友人は……???。
あの先生は…???。
消息を知りたい……。
会ってみたい……。
お世話になったあの先生はお元気なのだろうか……
中学時代から一緒だった○○君は……
転勤で、引っ越してしまったらしい……。
今でも、元気なのだろうか……??
3年間の高校生活を共にした……
幼なじみの〜あの友、この友、あぁ〜、だれか故郷を思わざる〜
というわけで
◆◆たずね人◆◆のコーナーを新設しました。
「ホームページ」または
ブログ「バーチャル同窓会」での情報公開としますので
懐かしい先生や友人の近況を知りたい方は
ご連絡をお待ちしています。
~~~~~~
■ルール
~~~~~~
◇●●年卒業/●●組/担任●●先生
◇氏名:●●●●君(さん)◇その他の情報
◇呼びかけの言葉
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
B投稿者の連絡先
◇氏名:●●●●君(さん)
◇●●年卒業/●●組/担任●●先生
◇メールアドレス
◇住所:(本人確認及び名簿修正のため)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
■本校の卒業生であることを名簿により確認の後掲載します。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
【王友会】=王工の思い出を刻み続ける会=事務局=
==============================
◇連絡先
〒113-0033 文京区本郷1-35-12
かんだビル7階 (株)ホロニックス総研内
TEL.03-5684-0021 FAX.03-5684-0031
ohyukai@holonics.gr.jp
==============================
■緊急連絡用(会長・細野孟士・直通)
Docomo 090-3203-0047
dzc05310-take5@docomo.ne.jp
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●この世にビールがある限り……??
「王球会」は永遠に不滅です???
平成21年7月25日(土)に
『閉校記念誌「王球」投稿者、編集者の集い』
がありました。
私は王子工業高等学校野球部の初代マネージャー(^^ゞ
当然?必然?記念誌作成の作文の投稿をお願いされてました。
仕事と育児が忙しかったため(言い訳ですが…)(^^;
『キャプテンが書いてくれるだろう…』と思いサボりました。スイマセンm(_ _)m
『ゲッ!誰も書いてくれないの?』と・・・(私もなんですが)
仕事から帰ってきて、夕食も作らず速攻で書きました。
作文なんて高校以来…
確か、30分ぐらいで書き上げました。
思いのまま書いたので、ひどい作文でした(-.-;)
そして、『閉校記念誌「王球」投稿者、編集者の集い』の葉書が届きました。
バツ1の子持ちなので行くとしたら実家に子供を預けなきゃいけなので、参加するのを躊躇いましたが
『これが最後になっちゃうかもしれないな…』と思い参加しました。
場所は御徒町の吉池『池田屋』と言うお店でした。
16:00〜だったのですが、電車が遅れた為10分ほど遅刻してしまいました。
着いてすぐ、前川会長から名札を渡され、指名された席へ。
1番先輩の隣に座りました。
昭和33年卒業と名札に書いてありました。
『私まだ産まれてないよ…』(^_^;)
ほとんどの方が、私のお父さんと同じくらいの年齢だったのではないでしょうか?
テーブルに乗り切らないほどの料理が出ました。美味しかった(*≧∇≦*)
ほとんどの方がビールだったので、ピッチャーが各テーブルに3個ほどあります。
ピンクのボーダーシャツを着ている岩見先輩はとっても怖い人でした。
でも以前飲んだとき、岩見先輩が酔って『オレは君とメオトになるからなぁ〜』と
突然愛のプロポーズをされました♪
だいぶ皆さん顔が赤らいでますね♪
楽しい話と美味しいお酒と旨いおつまみで盛り上がってました。
黒の生ビールは珍しいみたいですよ〜
私には苦かったので、普通のビールをゴクゴク飲んでました☆
写真手前の5名はゴルフの話で盛り上がってましたね〜
野球からゴルフに変わってしまったのかしら?
まだ野球やってる方も居れば、教える側にいる方もいらっしゃるそうです。
私は奥で前川会長と楽しそうに話をしてました(^o^)/U☆U\(^o^)
最後に集合写真を撮りました。これは店員さんに撮ってもらったのかな?
1番前でニコニコして写ってます。ピースなんかしちゃって(∋_∈)
皆さん真面目な顔して写ってるのに、私ったら空気読んでない(-o-;)
全員同じ高校で、同じ野球部。でも、一人違ったみたいですが(笑)
年齢の幅は大きくても、ちゃんと繋がっているんですね。
毎年、夏の大会前には必ず葉書が届きました。
仕事の都合で行けない年が幾度となくあり、申し訳なく思ったこともありました。
2次会で『オレの仕事はもう終わったから!』と万歳した前川会長をみて
『本当に長い間お疲れ様でした』と思いました。
あれだけのやんちゃくれ坊主達をまとめてくれていたんですから
相当大変な事だったと思います。
---------------------
レポート/松浦ふみ江
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【王友会だより】第03号
=平成16年10月15日=
王友会だより・第3号.pdf
都立高校改革で・・・王工がなくなる?
平成23年から王工が「総合学科高校」に変わる!
東京都では平成9年度より都立高校の改革に着手し、新しい高等学校のあり方について検討をしてきた。入試制度から学習目的に応じたカリキュラムまで、さまざまな高等学校のモデルを作成し、平成23年度までにすべての都立高をこのモデルのいずれかに改変するというものである。
どのようなものになるのか、全日制だけで見てもかなり多種多様となっている。大まかに分けて、従来と同じような1年、2年、3年といった学年制として、普通科の中に進学重点校、IT活用教育推進校、エンカレッジスクールの3種類と語学や理数などを選択するコース制がある。
同じく学年制としての専門学科高校として、今までの商業、工業、農業、産業、及び水産、家庭、芸術等の併合校がある。一方、学年制に対して1年生、2年生といった学年にこだわらない単位制高校として普通科、専門学科、総合学科の3種類を上げている。このほか中高一貫校も都内に11校計画されており、平成17年度から一部で実施される。
以上のような改革は、戦後の学制改革から半世紀を経て現在の高校のあり方が時代の要求からかけ離れて来ており当然の事と言えよう。もちろん少子化に伴い学校数は全日制203校が180校に、定時制が101校から、55校に減少することになっている。すでに総合学科高校の新設により廃校となった高校もある。
さて、ここからが我が母校のことになる。現在の予定では、母校は、平成23年度より総合学科高校として新たに開校の予定である。これにより、少なくとも都立王子工業高等学校はその名称を消滅させることになる。あらたに総合学科1校を現・王子工業の場所に設置するというものである。過去の学制改革のときのように、旧制の学校の伝統が新しい学校に引き継がれたように少なくても、何かが残されるのか。あるいは、まるで捨て去られてしまうのか。同窓会としては、その存続をかけた問題である。
王友会としては、新しい学校は『王子総合高校』の名称で王子工業高校が存続している形態にしたいと切望する。
半世紀を越える歴史と、1万人を越える卒業生、さらには地元にも親しまれてきた母校を簡単に消し去ってよいはずはないのである。王友会では、全卒業生、在校生、そして関係者一同に対し母校存続の運動を呼びかけるものである。
「王子工業」「王子総合高校」・・・・「オウコウ」と語呂はあっている。そのまま校歌も流用できるかもしれないし何かと便利であろう。
母校の歴史と呼称の変遷
昭和26年卒業生 柳沢継男
私が東京都立王子工業高等学校を卒業したのは、昭和二六年三月である。たしか、高校の第三回卒業と記憶している。朝鮮戦争の最中であった。
だが、入学したのは昭和二〇年四月、第二次世界大戦の、日本が連合軍に一方的に痛めつけられている最中である。この年に隈って入学試験を受ける生徒(国民学校六年生)は、前年より学童集団疎開のため東京に居ず、試験を受けることが出来なかった。
したがって国民学校からの内申書だけで入学の可否が決定された。つまり入学試験を受けていないのである。東京の下町に最初の大空襲のあった三月一〇日、合格発表を見に行った。
学友と下十条駅(現・東十条駅)まで電車に乗り、駅の上に見える学校に行った。
ところが荒川国民学校とある。だが『王子工業学校』と表札があったので安心して校庭に行った。入学した時は、『東京都立王子工業学校』、四年制の中学である。
四月に入学した頃から日本本土への空襲が激しくなり、授業の二時間目あたりに「警戒警報」、まもなく「空襲警報」のサイレンが鳴る。即時下校の命令でわが家に戻るという状態であった。
それでも空襲のなかった日は、授業が行われたが、当時の記憶にあるのは、一花先生の機械実習で、機械らしいものはほとんどなく、終始ヤスリ掛けの授業であった。
一学期が終わり、夏休みの最中に敗戦となり、二学期からは戦時色を払拭するため、教科書の塗りつぶし等があり、新教科書(製本されてなかった)への切り換えなどで、何を学習してきたのか、全く記憶にない。記憶しているのは、以前から変わらぬ機械実習と製図ぐらいである。
二年生のとき現在地にあった、旧東京造兵廠技能者養成所の校舎に移転した。木造の校舎が三棟あった。大きな機械実習工場があったが、機械は一つもなくがらんとしていた。
三年生になるとき学校そのものが変わり、『東京都立王子工業高等学校併設中学校』という名称になり、授業も機械実習・設計や製図がなくなり、音楽・図画などを代わりに受けるようになった。四年制の中学のはずが三年になり、翌年、ほぼ白動的に高等学校(『都立王子工業高等学校』)に入学するという緒果になった。したがって、ここでも入学試験は受けなかった。
母校の永い歴史のなかに、この様な時期があったということを、思い出をたどりながら記してみた。
頑張れエコランカー
=機械工作部=
『エンジンがかからない!!』 3年生は就職活動をしながら休みも無く車輌製作をしていく中、大会まであと4日という状況でエンジンの音を聞くことが出来なかった。この先いったいどうなるだろう・・・。(機械工作部日誌 9月28日 より)
機械加工作部では、栃木県にある「ツインリンクもてぎ」というレース場で行われている、本田宗一郎杯ホンダエコノパワー燃費競技全国大会(通称エコラン)に今年で6年目の出場になります。
エコランとは50ccのバイクのエンジンを使用して、1gのガソリンで何q走れるか?を競うレースで、王子工業高校からは手作りの車で出場する『高校生クラス』と、市販車を改造なしで出場する『市販車クラス』の2台でエントリーしました。
大会は10月2日(土)と3日(日)の2日間行われます。車輌などを運搬するために10月1日には業者のトラックに積み込みます。エンジンも昨年度のものを調整中に焼き付けてしまうというトラブルから、パーツ等の交換をし何とかトラックに積み込む前日にエンジンの音を聞くことが出来ました。
10月2日(土)朝4:30起床し、5:30からレース場入りして戦いが始まります。サーキット入りしてすぐに、トラックから荷物を下ろし、ピットを組み立てなどと慌ただしい空気の中でみんなピリピリした緊張感の中、車輌整備に入ります。生徒も大会経験者が多くそれぞれが自分で仕事を探し、とにかく車を走らせる事に力を合わせて作業をしていました。
学校と栃木のサーキットでは気圧と気温の状態が違い、エンジンがかかるまで微妙な調整が必要となります。ピットエリア中エンジンの唸りが聞こえ、どこのチームも忙しく活気が感じられました。エンジンも無事かかり競技車輌の調整が一通り終わると車検が待っています。当然車検は問題なく通過すると思っており、部員も教員も一段落といった気持ちでいました・・・。
「トラブル発生!!」 「先生!大変なことに・・・」車検へ一緒に行ったドライバーが今までにない表情で・・・ピットで待機していた部員と教員に緊張が走りました。
なんと、そのトラブルはハンドル部分のアルミ溶接部の強度が弱く破断してしまい、ハンドル操作が出来ない状態になってしまいました。「学校へ戻って、このパーツの溶接をするか・・・」「なにか現地で出来る加工がないか」「他の都立の高校へ行って部品をもらってくるか・・・」このままの状態では出場することが出来ず、リタイヤになってしまう・・・。部員も教員も同じ事を思っていました。
大会に応援で来て頂いていた、昨年度まで王子工業にいた先生方の協力と、部員も知恵を出し合い、なんとか予備パーツで持っていた、たったひとつのU型ボルトでハンドル部の修理を時間内で終え、無事に公式練習で走行することができました。
大会2日目(決勝日)、朝起きて外を見ると、激しい雨が降っており全員が去年の悪夢を思い出しました。去年は、決勝戦で激しい雨が降り全員がびしょ濡れのなかリタイヤをしてしまう結果でした。
レース場に着いても、激しい雨は降り続き気温も20℃を下回り吐息も白くなるほど寒い中での調整、準備となりました。
『高校生クラス』の決勝は9:00 172台の車が1台1台順次スタートをきっていきます。
サーキットを規定時間内に7周する(39分20秒11)のが条件です。
172台中50位に!
王子工業高校も何とか激しい雨という悪条件で前が見えない他の車輌から2回も接触されながらも、完走を果たし172台中50位『301.172km/g』という記録でした。この記録は、王子工業出場回数6回の中で最高の記録です。 12:15からスタートした『市販車クラス』も47台中21位、記録は『103.9km/g』でした。
2台とも決勝で、リタイヤするチームが多いなか、何とか決勝で完走を果たすことができました。
みんなで夏休みもほとんどなく頑張って製作してきた車とバイクがなんとか完走し結果を残すことが出来て、感動と同時に今までやって来た自分に自信を持つことが出来ました。
心強い部員の大半が3年生で来年度が不安でもありますが、新入部員に期待し、続けていければと思っています。また、今大会でも痛感したことですが、まだまだ溶接やエンジン改良・整備、電気系統などの技術的な部分や、部品や資材など力が及ばないものも多々あります。
是非、王友会の諸先輩方から、これらに関する知識や技術的なアドバイス、そしてパーツの寄贈などを頂ければ、これからの活動にもより一層いいものができあがると思っております。
今大会でも王友会から激励をいただきました。今後もご指導ご鞭撻をよろしくお願いすると同時に、この場を借りて御礼申し上げます。(機械工作部・一同)
機械工作部 部員・顧問一同
【王友会ホームページ】からもご覧いただけます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
【王友会だより】第02号
=平成16年7月20日発行=
王友会だより・第2号.pdf
チャンス到来!
未知との遭遇!
インターンシップに臨む
すっかり梅雨が明け、本格的な夏がやってきた。ギラギラと太陽が照りつける江戸川球場では、遠くから駆けつけてきた卒業生の応援もむなしく王工・野球部は10対0のコールド負けとなってしまった。戦いに敗れたとは云え、精一杯戦った王工ナインにとっては高校生活の想い出の一ページとなったことだろう。
夏休みと云えば3年生にとっては卒業後の進路を固める時だ。最近はインターンシップという就労体験制度があって、例え数日間であっても具体的にその企業の中で働く体験ができるのだから願ってもないチャンスだ。
学校の授業を通して想像していた企業、テレビや新聞などのメディア情報から想像していた企業、家族や友人・先輩から聞いて想像していた企業、それらのどれをとってみても実体験して企業を知ることにはかなわないのです。
具体的に社会人となって働くとき、受け容れ側の企業規模の大小や業種に関係なく、企業が新入社員を受け入れるということは、企業が常に活性化しているために欠かすことのできないことなのです。組織の動きが膠着しないように新入社員を採用し、新しい風を吹き込むことが大切だからと考えるからです。新しい人財には、新しい風、新しい智慧、新しいパワーが求められるわけですから、その仕事に対して好奇心と情熱をもって楽しく臨む人が求められるのです。
ですから、企業は採用を間違えると大きなリスクを抱え込むということになるので新しい人財の採用には慎重です。面接する際の大きな評価ポイントは・・・・
@きちんとした返事と挨拶が出来る人
A人の話をきちんと聴いている人
B胸を張り顔を上げ相手を見られる人
Cその会社の仕事に興味を持っている人
D自分の考えや将来の夢を語れる人
E約束したことをきちんと守れる人
F自分の健康管理を大切にしていること
多くの企業は新入社員を採用して数年間は、その社員に対して投資をしている状況です。本人は一人前に仕事をしているつもりでいても、企業人としての常識、仕事の内容、会社組織のこと、競合する業界のこと、経営意識のこと等、知っていなければならないことが山のようにあるので、様々な方法と時間をかけて教育してくれます。
インターンシップは「未知の世界」への第一歩です。初めて体験することがほとんどです。ビックリ、ドキドキの連続かも知れません。そんな時、大切なことはなんでしょう。積極的に知ろうとする前向きの姿勢です。自分が知る限りの知識をフル回転させて観るとドンドン理解できるようになります。
これから就職面接を受ける時にも、身体に身に付いた体験を思い起こし、パニックにならないように心がけてください。「無知との遭遇」なんていうことにならないよう落ち着いて臨みましょう。
人類の歴史は道具作りから始まった!
人類と道具の歴史は、人がまだ猿人としてこの地球上に誕生していた紀元前約200万年前〜約10万年前の旧石器時代から、縄文時代、産業革命を経て今日のIT産業時代に至っているのです。
人が他の哺乳動物と違う一番大きな点は、手を使って道具を作る知恵を持ったことです。そして、その道具を使って、狩りをすること、器を作ること、住居を造ること、道具を使って更に新しい道具を作ること・・・・を繰り返し、脈々と人類としての文化を創造してきたのです。便利で快適な生活環境を求めてきました。それが良かったのか悪かったのかの判断は難しいものがあります。でも、私たちは当たり前のようにその便利さと快適さを享受している現実を否定することはできなくなっています。
蒸気機関車が発明されてから僅か240年しか経っていない。電話の元祖・モールス通信が発明されて170年。白熱電球が125年前に発明されそれがエレクトロニクス時代の幕開けとなり、宇宙科学、IT産業へと著しい変化を遂げてきました。すべてが、人の手と道具によって作り上げられてきたのですから驚くばかりです。
王子工業高校は、それらの道具の正しい使い方と、物作りの大切さを学ぶ学校です。日々の生活の中で身の回りにある物が、どんな人によって、どのようにして作られたのかを知ろうとする探求心は、物作りを学ぶ人にとっては欠かすことができないものではないでしょうか。
社会とはなんだろう。
平成10年卒業(第50回)・MB
日置元久
社会とは人と人との係わり合いを指し示すものであるのならば、交友関係や家庭も立派な社会と呼ぶことが出来るだろう。
しかし、そういった小規模な範囲での常識というものは、他の集団や大規模な社会では通用しないことがある。仕事を目的として構成された社会においては尚更の事だ。そう言った社会は、前述の小規模な社会とは若干性質が異なるからである。そして、そう言った社会を一般的に「社会」と呼んでいるようだ。
現在の教育システムでは、学校という社会から、いきなり上記の「社会」に輩出される傾向が覗える。
そのとき、受け入れる側としては、どういった人間が望ましいのだろうか。「社会」に出て、初めてそこで通用する社会性を模索し始める者と、既にそこで通用する社会性を持ち合わせた者。当然、後者のほうが望ましいに決まっている。前者に必要となる教育の手間も時間も必要がないからだ。
では、そう言った人間は、一体いつそれを身につけているのか。それはもちろん、学生時代である。人生の順序を考えれば、この学生時代に何をするかと言う事がいかに重要か、すぐにわかるはずだ。
具体的に何をすれば良いのか、というと、社会に出て比較的すぐに周りの役に立てるように訓練しておく事だと思う。喋れて、礼儀正しいだけでも見るからに役立ちそうである。そして、それが出来るのであれば、もちろん食いはぐれる事も無いだろう。人の役に立てるということが、延いては自分のためにもなるということだ。つまり、ある程度他人の都合の良い様に振舞えると言う事が、自分にとっても都合が良いという事なのである。そしてその他人にとって都合の良い振る舞いというのが、社会性と呼ばれるものなのではないかと思う。
しかし、現実にはそれができている人はあまりいない。やはり学生と社会人とは違う面が多いからだ。学校というところは勉強等のできに比例して成績等が評価される。明確なものさしがあるので結果的に努力に比例して評価されるもののようである。先輩後輩などの関係は会社の上司部下の関係に変換されるのだが、部活などをやらなければ先輩と交流する機会は少ない。会社はいきなり「社会」に輩出される学生達には初めてそこで通用する社会性を模索し始める者もいることを考慮して教育していかなければならないのだと思う。
残念ながらそれができている「会社」というものは少ないように見える。そうさせているもののひとつに、日本古来から続いている悪習がる。人より年が多いというだけでそのものの言うことが正しいとしなければならない者や、必要以上に権威を振り回すもの。弱者に手を出すことで自分の地位を確認する者。それらの者が「社会」の常識を歪めている要因の一端であると思う。
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土岐善麿 作詞
信時 潔 作曲
天はあかるし 地はひろし
有線無線に 結ぶところ
文化の道の 新たに開け
桜に映えて かすむ筑波よ
紅葉に照りて かがやく富士よ
のびゆくちから 常に若し
朝は風澄み 夜もしずか
めぐるや機械の ひびき楽し
社会の動き ただちにつたへ
たゆまぬ勤労 こころ正しく
友情深く 岸辺に立てば
音無川は 更に清し
【王友会ホームページ】で聴くことができます。
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「王工の校歌制定」
この文章は
「30周年記念誌」より抜粋しました。
懐かしい王子工業高校がこの4月で創立30周年を迎えられた由、誠におめでとうございます。
私も教員生活を始めましてはや20年。人間味あふれる多くの先生方、そして意欲的な生徒諸君との当時の生活は、今日なお一つ一つが走馬燈の如く思い出されて参ります。
さて,私が記念誌に校歌制定を中心に書くようにとのことですが、私は校歌が何故おくれて出来たのかは存じませんので、当時の様子を書かせて頂きお許し願いたいと思います。
昭和26年と申しますと、末だ日本が終戦の苦しい時代から脱しきれぬころではなかったかと思います。当時の王子工業高校は旧陸軍の兵舎あととて、叉修理も出来なくて窓ガラスがなかったりで、もちろんピアノ・オルガン等もありません。そんな中でも生徒は誠に意欲的でした。
こうして今思いだしますと、あまり良いと思われぬ環境にもめげず、一所懸命に勉学に励み、運動会に遠足に、その若さと楽しみを発散させていました。
こんな中で何か一つ足りない様な気がするもの,「校歌が早くほしい!」と感じていたのは先生方ばかりでなく生徒諸君もそうではなかったでしょうか。修学旅行へ行った時など、バス旅行の終りにガイドが『最後に校歌を歌って頂いてしめくくりましょう・・・・』と言われた時など、いや何とも困った当時を思い出します。こんな気持の盛上りが実ってできた校歌ではないでしょうか。
さて何時でしたでしょうか,私は教頭の瓦井先生から呼び出されて『君は校歌の譜を頂きに行く時私と一緒に行ってもらいたい』と言われてびっくりしました。私が何故,それは私がオルガンを少し弾くことと、その頃は音楽の先生がいらっしゃらなかった言う理由によってのようでした。
それから間もなく瓦井先生のお供をして国分寺の信時先生のお宅へ伺いました。そして静かな自室のピアノの前でこう話をして下さいました。『この王子工業高校の校歌はこれから50年いや100年と王子工業高校の歴史と共に若い生徒さんに歌われるのですから、いつの時代にも又誰もが歌えるように作曲しました』と申されていました。
当時の古い木造校舎ではありましたが、みんなが待っていた。そんな気持でしょうか。電気科の2階の製図室で、また機械科工場での入学式・卒業式には、この校歌が元気よく歌われ、運勧会にも若人の活気が校歌に乗ってグランドに流れました。
「天はあかるし地はひろし・・・・」元気な歌声はいつまでも続くことてしょう。
【都立王子工業高等学校・校歌】の作詞者と作曲者
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◆土岐善麿(とき ぜんまろ)
(1885-1980・明治18年−昭和55年)
歌人。文学博士。芸術院会員
東京・浅草に生まれる。明治37年、東京府立一中より早稲田大学に進み、41年、同校英文学科を卒業。読売新聞社、朝日新聞社記者をへて同論説委員として勤務。ローマ字運動を推進、独特のローマ字短歌を発表。のちに早稲田の教壇に立った。昭和22年「田安宗武」の研究で学士院賞を受ける。
北原白秋、若山牧水らと同期。また、石川啄木とも親しく交流があり、短歌に独自の世界を開き生活を具体的に読み込んでいくことでその近代化につとめ、それからは誠実に生きようとする人間像を求め近代短歌上すぐれた存在となった。
◇代表作品
・「黄昏」
・「六月」
・「遠隣集」
・「Uguisu no Tamago」訳本
・その他多数
◆信時 潔(のぶとき きよし)
(1887-1965・明治20年−昭和40年)
作曲家。芸術院会員。
大阪府生まれ。明治43年東京音楽学校卒業。その後ドイツに留学し「ゲオルク・シューマン」に師事。帰国後、大正12年〜昭和7年母校で後進の指導に当たる一方、ドイツ古典派手法による素朴な日本的作品を数多く発表した。昭和17年帝国芸術院会員。昭和38年文化功労賞受賞。
昭和12年11月に放送されたNHK国民歌謡には、同氏のドイツ古典主義的な作風である当時前衛的な十二音技法による作品として、大伴家持の歌に曲をつけた「海ゆかば」や当時の国策音楽としての時代背景によって生まれた「国こぞる」などがある。
◇代表作品
・カンタータ「街道東征」1940年
・歌曲「海ゆかば」1937年
・歌曲「沙羅」
・ピアノ曲「日本童謡集」
・唱歌「一番星見つけた」「ポプラ」
「電車ごっこ」
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◆デザインは……昭和24年卒業・佐田実氏
はじめに
私が本校にお世話になったのは、昭和19年の4月から昭和24年の3月までの5年間で、戦中、戦後の境目に当り、新しく6・3・3の学制が始った頃ですから、当時の思い出を述べながら、私も関係した徽章制定のことにも触れたいと思います。
私を本校に採用して下さったのは、初代校長の野々山佐一先生で、たまたま先生のお住
いと私の家が近かったこともあって特別にお世話になり想い出も多いのですが、終戦までのことは他の先生方にゆずりましょう。
新制中学校への人事異動
新学制への移行について、第一に想い出されるのは、都の方針が当時発足した新制中学校へ旧制中等学校の教師の半分以上が異動しなければならないということでした。これはわれわれ職員には相当なショックでした。それもそうでしょう。新制中学校といっても独立校舎があるわけでなく、どのように発展して行くのか皆目見当もつかなし、何も無理して住みなれた学校を後にして、わざわざ中学校へ行くほどのことはないということで大方の先生は腰が重かったというのが正直なところだったように思います。そのようなわけで自発的な申し出も少く、当時の高橋三郎校長もずいぶん頭を痛めた模様でした。遂に校長の考える候補者を内示されましたがこれがまた大きな抵抗に会いました。
結局、新制中学校へ出られたのは私の記憶では次の方々でした。
鈴木初美・稲見辰之進・君塚一衛文・大山勝・佐藤敬勇・小林正治(旧姓中島)・小林修の諸先生と私の計8名でした。今でもそれぞれの顔をはっきり思い出すことができます。
この中で大山勝先生はすでに物故されましたが「王友」誌の旧職員の名簿からも抜けています。次号発行の節はぜひ載せてほしいと思います。
とにかく新制中学校への人事異動のことはその時移った私共にとって忘れることのできない想い出です。後になって考えればその時出た方々はみな自分から積極的に転出された方々ばかりのようです。
生徒募集のこと
今でこそ本校への入学志望者の数は非常に多く選ぶのに苦労しておられるようですが、終戦直後は一般に普通高校にはかり行きたがって工業高校を志望する者がさっぱりなくなり、これではいかぬと生徒狩り集めに学校をあげて奔走した一時期がありました。
中学校の先生たちを学校へ招いて説明会をやったり、街頭にボスターを張り出したこともありました。この時は私の専門が美術ということで瓦井教頭から一役おおせつかりました。何しろ物資の極端な不足の時ですから、ポスターも手描きよりほかはなく、いろいろ考えた未、型紙で張り込みが一番いい、それには型紙にはペナペナな紙では駄目で何かしっかりした紙はないものかと教頭に相談すると、瓦井先生も大乗気で「それではいい紙を持って来てやる」といって未だ使わない写真の印画紙の大判のものを提供してくれました。
おかげでまあまあ見られるポスターができました。あとは手わけでボスター張りです。私は川口方面をひきうけましたが、寒風の吹きすさぶ日で電柱に糊で張ろうとすると、すぐ風に吹き飛ばされて、相当苦労しました。今でもその時の情景が目に見えるような気がします。
新制高校への移行
当時私は勿論平教員でしたが、今にして思えば、新制高校への移行については特に管理者の方は大変なご苦労だったと思います。
その頃私は、都の新制高校対策委員をしており、小石川高枝の成田先生(弟さんの方)を委員長としてずいぶん頻繁に会合を開きました。
しかしその委員会で何を具体的にきめたかというと、どうもあまりよく思い出せません。そういうところを見ると私はあまり役に立っていなかったんだろうと思います。ただ新しい教育課程によって脚光を浴びたものの一つにホーム・ルームの間題がありました。
当時このホーム・ルームについて積極的に取り組んだ学校に北園高校がありました。同校ではホーム・ルーム、ティーチャーへの所属を生徒の希望によって始めました。本校もこれを範としてやりましたが、いざやってみると、先生によって生徒の数に大きな差が生じてしまい、その調整に一苦労しました。
そして仲問の間では「これからは生徒にお使い物をしなけれはならない」という冗談が交わされたのも想い出です。
飛鳥中学校のこと
新制中学の発足と同時に、本校の一部に区立の飛鳥中学校が間借りで生れました。そこの初代校長が後の本校の三代校長となった沢畠美福先生です。
私事で恐れ入りますが、この沢畠先生は私の先輩筋に当る方で、発足の昭和22年に先生から飛鳥中学校へ来ないかと私にお話がありましたが、私とすれば新制中学がどのようなことになるやら見当もつかなかったのでご辞退申し上げました。
しかし2年後に再びお話があったので、その項はもう新制中学枝の将来もどうやら見当がついたので私は飛鳥中学校に転出いたしました。
そして1年したら今度は沢畠先生が本校の校長としてお移りになってしまいました。つまり1年おいて入れ代るという不思議な運命になりました。
当時の校舎は兵舎だったままの木造で、手入れはされず、壁は落ち放題、天井は突つ抜け、廊下は穴ぼこだらけで、窓枠はなしという状態で、廊下の穴ぼこに足を踏み込んで怪我をする者が出たり、天井がない為に、隣やそのまた隣の声がつつ抜けに聞えて来たり、雨の日は机を片寄せて勉強するという有様で、今の鉄筋校舎は夢のようです。
徽章制定の苦心
さていよいよ徽章制定のことてすが、これは編集者の方のご注文でもありますので、少々詳しく申し上げましょう。
徽章といえば本校が旧制工業学校時代には全く別の徽章がありました。それは丸い形で縁が三重の輪になっていて、中に「王」と書いたもので、図案した方には誠に申訳けありませんが、あまり面白いものではなく、一度私は野々山校長に工業学校時代に図案を変えてはどうかと進言したことがあるような気がします。
しかし新制高校発足に伴い、「新しい徽章を」ということはごく自然に職員全体の要望になって参りました。
この時も瓦井教頭から美術関係ということで私に骨折るよう言いつかりました。そこで職員会議で先生方とも相談して、まず斬新な図案を求めるために、生徒、先生から懸賞募集し、その選もそれらの投票によって決ることにいたしました。
そこで私自身もいろいろ図案を考え、また他校の徽章も改めて研究しました。するとたいていの徽章が三角型、四角型(これは割合に少ない)、五角型・変型の4通りぐらいになることを知りました。そして丸型だけは避けたい、中の文字には『高』の字を持ってきたいと考えました。この2つは他の先生方も同意見のようでした。
いよいよ応募した図案を集めてみますと、私が予想したよりその数は多くありませんでした。そして多少手直しする必要がありました。 私は全部の図案を描き直し、それに私自身の図案もまじえて公表しました。
今度は投票です。投票が始まって困ったことが起りました。それは私がデザインした翼を拡げたょうな平凡で私自身気に入らない図案に生徒の票が集り出したことです。
私としては今更引っ込めることもならず、私が秘かにいいと思うある生徒の作品に票が集まることを祈るばかりでした。
一方生徒の方もこの投票には強い関心を示し、特に上級生が熱心で、生徒の佐田実君のデザインがいいではないかという声が盛り上ってきました。よくしたものでこの佐田実君の作品こそ私が秘かにいいと思っていたその作品なのです。
結局、佐田君のデザインヘの票はうなぎ登りに増えて、先生方にも異存はなく、佐田君の作品に決ったわけです。
この図柄は、機械工作に使う定盤をややななめにしたものを2つ組合せ、真中に高等学校の「高」の一字を配したもので、誠に簡明で、すっきりしており、先に申し上げた比較的少い四角型の系列に属するものです。
本校の徽章制定には以上のような経過と苦心があったわけで、このことに関係させて頂いた私としては、何か私白身のデザインのような錯覚におち入り、愛着ひとしおのものがあります。
今でも路上であの徽章をつけた本校の生徒に会うと、ちょっと声をかけたくなるような気持になる私です。
当時、私が清書して生徒たちに示した作品一覧の図面は、長く拙宅に保存してあったのですが、この寄稿に当り家中を探しましたが、どうしても見当らずこの機会にお示しできないのが残念です。
できたら佐田実君のポートレートでもご掲載頂ければこんな嬉れしいことはありません。
師弟の間柄
最後に当時の学校の雰囲気というか、先生と生徒の間柄についてお話ししてこの稿を終りたいと思います。
終戦前後のその頃は誠に物資不足の苦しい時代でしたが、先生同志も先生と生徒の間柄も非常に仲がよかったと私には想われてなりません。
時代が時代ですから、結構われわれは生徒をたたいたりなぐったりしましたが、(今考えればこれは教師として甚だお恥しい限りですが)それでも生徒はついて来てくれました。
そしてわれわれ教師に対して傑作のアダ名をつけてくれました。
ちょっと想い出しただけでも・・・・
河馬さん(瓦井先生)、奥さん(宇野先生)、 ヂャガイモ(大山先生)、チャボ(栗田先生)、ゴボウ(山本実先生)、カマキリ(私)
などがあります。・・・・・ご免なさい!
これらの諸先生・・・・これらはアダ名といっても愛称に近く、何処か愛矯があり、また親しみが感じられます。私の「カマキリ」に至っては当時私はやせており、時々怒りましたので、カマキリとはいいえて妙です。
いつか連動会の時にはカマキリの形をした大きなプラカードのようなものを押し立てて気勢をあげている生徒たちがいましたが、これには参りました。しかし嫌な気持はしませんでしたね。
とにかくその頃本校の先生同志、また師弟の間柄には親密なそして幾分ゆったりした一種独特な空気があったことが大変懐しく思い出されます。
私は本校を去ってからすでは20年以上経っているにもかかわらず、いまだに何かあると私の足は自然に本校へ向くのです。大学問題、高校間題のうるさい昨今に比べて、当時は物こそ不自由でしたが誠によき時代であったと想い出さずにはいられません。
どうも懐しさのあまり、自分のことを中心に、他のご迷惑を顧みず勝手なことを書きつづりましたことを深くおわびしてこの稿を終ります。
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